社会人野球から現在の東西野球対抗戦へ

田村駒はプロ野球だけではなく、社会人野球でも活躍しました。
その歴史は1926(大正15・昭和元)年頃から始まったそうです。

  • 昭和6年頃。田村駒商店の店頭で凱旋記念の写真。

当時、大阪市内の材木問屋約1300社からなる選り抜きの選抜チームと対戦し、勝利を納めるほどの実力を誇った田村駒の野球チーム。

競合他社との「三店リーグ」は盛んに行われ、客席の応援団が日頃のライバル意識を試合にぶつけるようなかたちで、全社をあげての熱狂ぶりを見せていました。

  • 昭和10年頃、堺の球場で。メンバーの後ろには応援団。

三国寮に野球場ができてからは活動も本格化し、実力も蓄えていきました。チーム名は本拠地の地名から「庄内田村駒」と名付けられました。

1939(昭和14)年夏、「庄内田村駒」はついに全盛期を迎えます。
都市対抗野球大会の近畿地区代表として全国大会へ出場を果たし、次々と勝ち進みます。

優勝候補といわれていた兄弟会社チーム「大阪太陽レーヨン」にも勝利を納め、決勝戦へと駒を進めました。

惜しくも決勝戦で敗れはしたものの、ノーマークからの準優勝という快挙は、田村駒の名を高め堂々の準優勝を勝ち取りました。

この強さの理由は3つありました。

1つは、野球経験者を社員に確保したこと。
2つ目は、専用ホームグラウンドがあったこと。
3つ目は、田村駒がプロ野球球団のオーナーを務めたことによりプロ野球球団との交流が生まれ、プロ野球選手の練習を間近に見て刺激を受ける環境があったことです。

戦後5年が経過した1951(昭和26)年には「松竹ロビンス」の二軍選手を起用するなどして野球部を復活させ、再び実業団チームとして一流の実力を取り戻しました。

  • 再結成した野球部。昭和26年11月18日大阪絹人絹織物商連合大会第1回優勝を果たす。

しかし経営悪化によりプロ野球経営からも手を引くことになった翌年に、野球部も縮小を余儀なくされました。

それでも、二代目駒治郎の「野球好きの気質」は、田村駒の中で脈々と受け継がれていきました。

野球部は社内親睦のクラブ活動として形を変え、現在では毎年秋に大阪本社と東京本社チームの対決「東西野球対抗戦」が行われています。

社長による始球式も必見。

野球を通じて垣根のない交流を楽しんでいます。