朝鮮戦争終結により繊維相場暴落、経営危機へ

Index

  1. 01.暗転する黄金時代 ― 繊維相場暴落で経営危機へ
  2. 02.不屈の創意工夫 ―ーユニークな宣伝企画と「花ふさ会」ー

暗転する黄金時代 ― 繊維相場暴落で経営危機へ

1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発とともに日本経済は「特需」の熱狂に包まれました。
繊維業界もまた、機械を動かせば儲かる「ガチャ万景気」に沸き立ち、二代目駒治郎率いる田村駒も絶好調。
非繊維部門へ手を広げるなど、総合商社を目指し、積極果敢な事業展開を続けていました。

しかし、好景気と田村駒の黄金期の終焉は唐突に訪れます。

1951(昭和26)年7月、朝鮮戦争の停戦交渉が始まると、高騰を続けていた繊維相場は一転して大暴落しました。
売り物が殺到する一方で買い手はつかず、業界は「頂上から一気にどん底」へと突き落とされたのです。

二代目駒治郎が自ら渡米して買い付けた原料の毛屑の価格は、日本に届く頃に需要が高級品へ移ったことも重なり、半値以下にまで暴落していました。

困った二代目駒治郎は、東京店の主力取引先であり実質的な子会社だった和泉毛糸紡績にやむなくこの毛屑を仕入れさせます。

しかし、これが引き金となり、和泉毛糸紡績は倒産。田村駒も莫大な不良債権を抱えることになったのでした。

資金繰りに困った田村駒は、銀行から運転資金の借入れに奔走しますがうまくいかず、無理な取引きや手形操作に走り、損失は雪だるま式に増えていきました。

1951(昭和26)年10月、田村駒大阪本社は、田村寛次郎を東京店に派遣し、経理内容を徹底的に調査させました。
二代目駒治郎が陣頭指揮を取り、総合商社を目指していた東京店の実態は、非繊維の専門家を雇用していたことによる人件費の高騰、さらにその非繊維部門は損をしているような状況でした。国内の取引先倒産による巨額の不良債権も抱え、経理内容は破綻状態でした。

1952(昭和27)年3月には大幅な組織改革を行い、東京店を東京支店にし、原料部は廃止、貿易部は縮小させ、輸出主体の戦略に改めました。

不屈の創意工夫 ―ーユニークな宣伝企画と「花ふさ会」ー

そんな経営難を打開すべく、田村駒は大きく2つの戦略を実施しました。

一つは、二代目駒治郎が得意としていた「ユニークな宣伝企画」です。

電波メディアにいち早く目を付けた田村駒。
1953(昭和28)年、テレビ放送が始まったばかりの時代に、久津和浴衣の販促のため「浴衣を買えば抽選でテレビが当たる」という大胆なキャンペーンを打ち出したのです。
まだ一般庶民には手の届かない高嶺の花だったテレビが当たるとあって、浴衣は予想を遥かに超える売れ行きを記録しました。

  • 大懸賞付「久津和ゆかた」を発売。

また防縮加工織物「ミラクル・エバーグレーズ」の独占販売を開始した際には、知名度UPのため、ラジオ番組「ミラクル・メロディ」という放送に参加しました。

  • ラジオ番組「ミラクル・メロディ」の録音風景。

その後も人気映画やラジオ番組にちなんだ浴衣も発売しました。

そのほか、タレントや人気力士を商品のイメージキャラクターとして起用するといった宣伝手法で、話題をさらいました。

販促促進のため、人気キャラクターをプリントした子供服や寝装・寝具、著名雑誌と提携したプリント商品も発売しました。

  • ラジオの人気番組の出演者を審査員に招き、ゆかた柄のコンテストを行った。

もう一つの経営難打開策として実行した戦略は、得意先とのつながりを密接にした「花ふさ会」の結成でした。

1953(昭和28)年頃から和歌山染工(株)と共同で、「シリカドックス加工」を開発。
これにより、風合い・発色ともに優れた高品質の双糸綿ネルを完成させました。

1954(昭和29)年5月、田村駒は綿ネルブランドを「花ふさ」に統一。
同時に、業者間の親睦を図り、花ふさネルの特色や販売方針の的確な理解を促すことを目的とした「花ふさ会」を結成しました。

「花ふさ会」では、色柄の研究が行われたり、年間を通じた価格維持や販売量の抑制などを取り決めたことで、商品育成と業者利益の確保を図ることができました。

  • 花ふさネル生地。

花ふさネル自体の商品の魅力と、この全国販売網の「花ふさ会」により、業界屈指の販売実績を着実に積み上げていきました。

しかし、こうした施策も「焼け石に水」というほどに、雪だるま式に赤字は膨らんでおり、「倒産」の瀬戸際まで追い詰められていました。

二代目駒治郎はこの経営危機に、真正面から向き合うことを決断するのでした。

ミニコラム

服地とゆかたコンクールで優勝

1952(昭和27)年4月、大阪綿スフ織物商懇話会主催の「服地とゆかたのコンクール」において、田村駒の出品作品は服地の部・ゆかたの部の両部門で最高得票を得て、繊維局長賞・通産局長賞・知事賞を受賞し、総合優勝することができました。
これは、久津和会を中心にした「意匠の田村駒」の伝統復活に向けた取り組みが実を結んだものでした。