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二代目駒治郎奔走~絶対に田村駒を絶やさない~
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二代目駒治郎の決断 ー銀行への告白ー
1954(昭和29)年9月、二代目駒治郎はついに決断します。
メインバンクの三和銀行(現:三菱UFJ銀行)へ向かい、融資を絶やさないためひた隠しにしてきた経営の実態を伝え、35億円という巨額支援を仰いだのです。
銀行はこのあまりに大きな損失額に驚愕。再建計画の提示と徹底的な合理化を迫りました。
労使一体の再建
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昭和34年頃、メーデーに参加した田村駒労働組合委員。
再建への道は険しいものでした。
まずは、三和銀行の指導の下、希望退職を募り約50名が退職、人員整理が行われました。
それを直接のきっかけに、1954(昭和29)年10月、自らの権利と会社再建への参画を求め、労働組合が結成されました。
当初「主人と奉公人」という船場の古い体質が残っていたため、二代目駒治郎は激怒しましたが、組合側が「会社再建こそが先決」と宣言。
銀行との交渉に際しては労使が一致結束して臨み、田村駒を守るために一丸となりました。
駒治郎も自身の個人財産をすべて投げ出し、退路を断ちました。
人員整理などの苦渋の選択を迫られながらも、「田村駒」の看板だけは死守しようと奔走していくのでした。
合繊時代の幕開け
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昭和33年、5階展示ホールでの合繊服地の展示会。
田村駒が経営危機に瀕している頃、1952(昭和27)年に政府によって策定された「合成繊維産業育成五カ年計画」と1955(昭和30)年~1961(昭和36)年の神武景気・岩戸景気による高度経済成長期により、合成繊維は目覚ましい発展を遂げていきました。
この時流に乗り、田村駒は紡績や化学繊維・合成繊維メーカーのチョップ品を扱い、在庫リスクの少ない堅実経営への転換を模索し始めました。
1954(昭和29)年1月には、倉敷レイヨン株式会社【現:(株)クラレ】のクララ モスを使用した寝具裏地の販売を開始し、合繊による寝装分野への進出を試みました。
そして、1956(昭和31)年7月に第一物産との業務提携が成立。
経営危機のなかの業務提携であり、業界も注目する出来事でした。
二代目駒治郎は社員の動揺を防ぐため、全社員を集めて次のように語ったそうです。
「今回の業務提携は田村駒が物産の傘下に入るとか、合併して物産の内地部になってしまうというのではなく、両社の長所、短所をお互いに補い合う提携である。これによって現在の月商15億円が、30億円程度に拡大する可能性があり、各人一層努力して欲しい」
この提携により、田村駒は一度は途絶えていた東洋レーヨン株式会社【現:東レ(株)】との取引復活を希望しました。
第一物産はこの時、その希望を叶えることは難しく、代わりに世界で初めて商業化された英国ICI社のポリエステル繊維「テリレン」の取り扱いを勧め、田村駒は1956(昭和31)年10月から販売開始しました。
しかし当初日本ではナイロンが全盛期で、多くの取引先がポリエステル繊維に難色を示し、使用用途として勧められた学生服地向け販路も強くなかった田村駒では、うまくいきませんでした。
こうして第一物産との業務提携がなかなか実を結ばないなか、転機が訪れます。
2年後の1958(昭和33)年に、東洋レーヨンと帝国人造絹絲【現:帝人(株)】がポリエステル繊維を「テトロン」として共同で商標統一し、生産を開始したことで、ナイロン、アクリル、と併せて三大合繊が出揃い、合繊時代が本格化していきました。
同じ頃、田村駒では三和銀行から直原一雄および第一物産からもう1名を代表取締役として迎え、新体制が発足。この2名によって経営の舵が取られるようになりました。
第一物産出身の代表取締役の尽力により、東洋レーヨンとの取引が復活。
「東レセールスチーム」にも参加することができました。
これが契機となって、1958(昭和33)年〜1960(昭和35)年にかけて法衣、カーテン、プリーツスカートなど、テトロンの特性を活かしたユニークな用途開発が進み、再建の大きな原動力となりました。
そのほか三菱レイヨン【現:三菱ケミカル(株)】のアクリル繊維「ボンネル」の扱いも拡大。
当初は紳士服地で失敗したものの、その後の「ニットブーム」で大きな利益を生む商品に成長しました。
また、旭化成工業(株)【現:旭化成(株)】の「ベンベルグ」も田村駒の再建を支える重要な商品となりました。
非繊維分野の強化~「田村駒常盤」へ~
1957(昭和32)年3月には、鉄鋼商社である常盤鋼材の金属部門の営業権を譲り受け、社名を「田村駒常盤株式会社」へと変更しました。
これにより、金属部門の利益が損失を補填し、再建へと大きく貢献しました。
この頃、三和銀行からのテコ入れにより、発砲スチロール、スチレンペーパー、倉敷レイヨン(株)の「倉敷ビニロンフィルム」などの資材の取り扱いも開始。
しかし、資金不足のなかで新製品を育てる余力は限られ、撤退を余儀なくされることもありました。
伝統の強みにも注力、花ふさネルもヒット
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大阪本社ビル2階、友禅売場。昭和35年頃の様子。
合繊や非繊維分野だけではなく、従来から強みの天然繊維や意匠にも注力していった田村駒。
伝統の友禅においても、大阪本社2階の友禅売り場に美しい意匠が施された商品がずらりと並び続けました。
更紗でも長年の背景を強みに、1957(昭和32)年、鐘淵紡績とタイアップしてカネボウ更紗の販売を一括して担うことになりました。
斬新な柄と高品質で順調に伸び、業界のトップ商品として成長。10年後の1968(昭和43)年にはカネボウ更紗のセールスチーム「カネボウ更紗会」を結成、一層の販売推進を誓ったのでした。
ユニークな商品企画や宣伝企画はすべて卓抜した意匠力をベースとして生み出されるという考えに基づき、1960(昭和35)年には、意匠室を意匠企画部に発展させ、総合的な商品開発力の強化・育成を図っていきました。
その意匠企画部主催の「大和紡プリントと先染服地を使ったセールスピンワーク講習会」は1961(昭和36)年頃から開催され、毎回多くの来場者が訪れました。
当時ピンワーク習得は服地小売店には重要課題であったのです。
「田村駒商報」も1955(昭和30)年から「久津和セールステキスト」と名称を変え、1960(昭和35)年からは「タムラコマセールスガイド」へと体裁を一新しながらも、伝統を残したPR誌を提供。顧客の課題解決の一助を担いました。
そしてこの頃、先述の「花ふさネル」も爆発的なヒットを記録。
1959(昭和34)年、発売6年目にしてついに総販売量100万反(3,000万メートル)を突破しました。
そこで同年7月1日〜10月末まで、「花ふさネル100万反突破記念セール」と名付けた賞品付きセールを実施。
花ふさネル地1反に1枚の抽選券を添付し、当選者にテレビまたは電気冷蔵庫が当たるというものでした。
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役員一同が見守るなか、厳正な抽選が行われた。
さらに当選者を出した特約店にもトランジスタラジオが当たるという二重景品方式で話題になりました。
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花ふさネル100万反突破記念セール。冷蔵庫・テレビ100台提供という豪華な賞品が話題になった。
安堵を胸に、二代目駒治郎眠りにつく
二代目駒治郎は、「絶対に初代が築きあげた田村駒を潰してはならない。負けてたまるか。」と、不屈の執念で経営の立て直しに奔走しました。
「自分の立場は、はりつけにあったようなもので、下りようにも下りられない。こうした状況に追い込んだ責任は自分にあり、なんとしてもこの苦境を乗り切らねばならない」と長男に漏らしていたといいます。
ようやく再建の兆しが見えてきた1960(昭和35)年の正月、二代目駒治郎は「ようやく苦境を脱した。もう少しの辛抱であり、各自一層努力して欲しい」と訓示し、社員の顔にも安堵の色が見えました。
しかし、銀行との折衝、債権回収など、昼夜を分かたぬ再建への活動により二代目駒治郎の心身はすでに限界を迎えていました。
わずか1年後の1961(昭和36)年1月21日早朝、二代目駒治郎は心臓発作により、56歳でその生涯に幕を閉じました。
豪放な風貌や体格とは裏腹に緻密で行動力に富み、色紙にはよく座右の銘として「決断即行」と書いていた二代目駒治郎。
機械・化学分野にも事業を広げ、戦前には20数社の役員を務めました。
交際範囲も日銀総裁からプロ野球選手まで幅広く、人情味豊かで面倒見もよかった二代目駒治郎。
趣味の豊かさでも定評があり、能楽、スポーツ、音楽など、さまざまな分野に精通していました。
二代目駒治郎は、父である初代と共に、大阪を代表する実業家であり、戦争や深刻な不況といった激動時代を乗り越え、最後まで「田村駒」の看板を守り続けたのでした。
「田村駒を絶対に絶やさない」という執念で守り抜いた「田村駒」と、そこに集う社員たちの手によって、新しい時代へと引き継がれていったのでした。
ミニコラム
ベンベルグ開発への貢献
当時はまだ風合いが硬く、ブラウスなどに使用するにはイマイチ。
さまざまな用途へ試した結果、裏地として活用することを提案し、ヒット商品へと発展していきました。
商品開発に携わったこと、販売努力をしたことが高く評価され、二度にわたって功労の金盃を授与されました。



