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トロイカ体制で再建達成~合繊が新たな柱に~
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トロイカ体制の始動と組織改革
1961(昭和36)年1月に二代目駒治郎が逝去。
再建の目処が立ち始めていた時期だけに、残された者は一層気を引き締めて「田村駒完全復活」を目指しました。
後継の社長を選任せず、三和銀行出身の直原一雄を始め、3名による代表取締役体制「トロイカ体制」を敷くことにしました。
この新体制のもと、田村駒は再建に向けた歩みを加速させていきます。
まず着手したのは、徹底した大規模な機構改革でした。
1961(昭和36)年から1962(昭和37)年にかけて、東京支店の営業部門強化や出張所の新設を行いました。
大阪本社営業部門の改革も行いました。
①地方卸向け販売の強化、②各部責任体制の確立、③二次製品の強化を目的に、内地織物部、内地加工部、服地製品部と3つに組織を分けました。
さらに、販売課を従来の地域別から各部別にしたことで、各部が独立して収益向上に努力する体制が整えられました。
同時に若手社員を管理職に登用し、社内の活性化、営業の底上げを図りました。
海外市場開拓組織としては、最大市場であるアメリカ輸出の強化を目的にニューヨーク、二次製品の加工基地の一つとして香港に、駐在員事務所を設置しました。
営業戦略の柱となった合成繊維
営業戦略の柱となったのは、当時飛躍的な成長を遂げていた合成繊維でした。
合成繊維で販売をさらに伸ばすためには、販売系列の確立が必須。
そこで、1961(昭和36)年8月、TTST(東レ・田村駒セールス・チーム)を正式に発足、東レ織物の縫製業者に対する本格的な販売強化に乗り出すことになりました。
当時のTTST会員は7部会59社から成り、東レテトロン、ナイロンの田村駒を通じて購入、それを縫製、それぞれのルートで販売する、また会員が縫製した製品を田村駒の地方卸ルートでも販売する、という内容でした。
そしてこの施策は予想以上の効果を上げました。
1961(昭和36)~1962(昭和37)年にかけては、合成繊維製品の発展期。
各メーカーが開発競争を繰り広げる中、田村駒も更なる拡大を図り、各合繊メーカーとの連携を蜜にするとともに、取り扱い商品を増やしていきました。
こうして、1962(昭和37)年には田村駒の長年売上のトップを占めていた綿布を抜き、合繊部門が売上の首位に躍り出ました。
順風満帆に進むかと思いきや、合成繊維業界も1964(昭和39)年~1965(昭和40)年にかけて大不況に。
合繊各社の競合時代に対処するため、東レは1964(昭和39)年、テトロンでありながら絹のような特徴を備えた異形断面糸「シルック」という新商品を開発しました。
田村駒は「シルック」の用途開発・販路開拓の参画に名乗りを上げます。
婦人服地、和装、コート地、ふとん地、シャツ地、裏地、ネクタイ、寝具、足袋、スカーフなど、さまざまな用途に広げる努力を行いました。
当初、糸の種類も少なく、生糸よりも高かったため、販路開拓も簡単ではありませんでした。
地道な販売促進の工夫と、東レ技術陣の研究成果により品質は改良・価格も安くなっていきました。
これにより、まず裏地分野と和装分野で広がりを見せ、1966(昭和41)年に糸値を引き下げ、生糸の価格と同程度にしてから、シルックは急成長しました。
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昭和44年頃、京都での東レシルック和装展。
そして異形断面糸開発ブーム「シルキー合繊時代」が到来。
シルックの扱い量は一段と増加し、1960年代後半の田村駒の成長の一躍を担いました。
多角化と寝装・インテリア部門の成功
高度経済成長によって生活水準が向上するなかで、田村駒はトロイカ体制のもと、繊維以外の分野や二次製品の強化が進められました。
金属部や物資部の設置による非繊維部門への進出や、アメリカのキャリア社と提携した製氷機・冷房機の輸入販売など、収益源の多様化が図られました。
二次製品の強化として注目されたのは、寝装・寝具とインテリア分野でした。
▶寝装・寝具
1961(昭和36)年に、洋布団に「ニューマリオン」の商標をつけ、ファッション性を取 り入れた戦略は、月間1万枚の販売記録を作るほどの大ヒットとなりました。
1963(昭和38)年にナイロン30%、レーヨン70%の新素材「東レホームフラノ」の取り 扱いも開始。パジャマやネグリジェの用途で二次製品の強化を試みました。
当初は苦戦したものの、2年後には年間100万mを販売できるようになりました。
▶インテリア
1958(昭和33)年〜1965(昭和40)年の7年間で、田村駒はカーテン分野でのトップ商 社の地位を築くほどに、カーテンの取り扱い・販売量を増やしていました。
1958(昭和33)年に、スフ在庫を活用した厚地織物カーテンを開発・発売したことから 始まります。それまで大衆向けカーテン専用生地はなかったため、当時は画期的な商品と されました。田村駒はカーテン専用プリント地を発売し、居間用、応接間用など用途別に したところ、売れ行きは好調。取引先と共に新商品開発を進めていきました。
1964(昭和39)年、田村駒はポリエステルのレースにプリーツ加工を施した「東レプリーツカーテン」の販売を開始。プリーツカーテンは脚光を浴び、販売量の拡大に繋がり ました。
12年ぶりの復配と再建の達成
さまざまな施策が実を結び、1963(昭和38)年11月期には累積赤字を一掃し、1951(昭和26)年以来となる12年ぶりの1割配当(復配)を実現しました。
これにより、長年にわたる会社の再建は、事実上達成。
大規模な機構改革、伝統的な綿布から合成繊維へシフト、非繊維分野の進出や、インテリア・寝装寝具まで、時代のニーズを捉えることで、危機的な経営難からようやく再建を果たせたのでした。



