岡島千代造商店で才覚発揮

Index

  1. 01.質素な精進と才能の開花
  2. 02.怠らない努力の継続が揺るぎない自信と成功へ
  3. 03.共同出資から独立へ

質素な精進と才能の開花

1884(明治17)年3月、大阪へと向かった17歳の駒治郎は、西田興兵衛氏の遠縁であり、当時最も新しい商品のモスリン友禅を製造していた、岡島千代造商店の世話で、得意先の洋反物商で奉公を始めました。

しかし、その洋反物商も日を経たずに経営が悪化、結局岡島千代造商店に店員として入店することになったのです。

  • 岡島千代造氏

岡島千代造商店での駒治郎の生活は極めて質素で勤勉。
食費をできるだけ抑え、浮いたお金のすべてを本代に充てるほどでした。

仕事を終えた後も遊びに出かけることなく、夜学に通い夜11時に帰宅するといった日々を送りました。ちなみにこの時に学んだ英語が、後の事業で大いに役立つことになるのです。

  • 岡島千代造商店時代の駒治郎

実は幼少期から絵画も得意であった駒治郎。誰に教わったわけでもありませんでしたが、その持って生まれた才能を友禅の意匠図案に注ぎ込んでいきました。

友禅染めの模様に斬新な感覚を持ち込み、染色技術の研究も重ね、新しい意匠を次々と生み出します。

これにより岡島千代造商店には注文が殺到、業績は飛躍的に伸びました。

はじめは一時的な入店のつもりでしたが、西田家で培った知識、生まれ持った絵画の才能が友禅染色業に活かされ、その意欲的な働きぶりに驚いた千代造氏が、「友禅の意匠に力を発揮する方がよいのではないか」と駒治郎を引き留めました。

これが現在の田村駒に繋がるきっかけとなったのです。

怠らない努力の継続が揺るぎない自信と成功へ

駒治郎は、意匠図案に対して絶対の自信がありました。

1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会にて、1位か2位を争う場面で他社に負けそうになると、自社の友禅が最高だと審査員に直談判を行い、結果1位を獲得したほどです。

また駒治郎は、一度熱中すると納得するまでやり遂げる性質を持っていました。

賭博の一種である「八八」に凝った時期があり、負けることが嫌いだった駒治郎は、連日賭博場に通いながら、必勝の手を研究し尽くします。

結果、百戦百勝すると、ピタリと賭けを止めました。

彼はのちに、「商売も一種の賭けである。つねに勝つとは限らないが、勝てるよう日頃から研究し、勝負感を養っておく必要がある」と述懐していたそうです。

常に勉強や研究を怠らない努力を継続していたからこそ、揺るがない自信へと繋がり、それが商人としての成功を導いたのでした。

共同出資から独立へ

岡島千代造商店に入店して7年、駒治郎はすっかり頼りにされるようになりました。

駒治郎は、染め加工だけでは将来の発展は望めないと考え、千代造氏に生地を買い付けて染め、その染め加工を施した生地を販売してはどうかと提言しました。

1891(明治24)年、千代造氏は提案を受け入れ、会社を工場部門と販売部門に分離し、工場部門を岡島合名会社に改組しました。

駒治郎は岡島合名会社の3分の1の共同出資者となりましたが、出資金は手元になかったため知人から融通を受けました。多額の利子を払ってでも、友禅の将来に大きな期待をかけていたのです。

1893(明治26)年には、駒治郎の努力により無地染めの鮮明な染色法が完成され、輸入品に劣らないと評判になりました。

その頃から、駒治郎はモスリン市場がさらに広がる可能性を見通し、もっと積極的に販売を行うための卸問屋の設立を望み始めます。

岡島合名会社の体制では難しいと考え、1893(明治26)年暮れに卸問屋の設立を決断します。

こうして「田村駒」が誕生するに至ったのです。

ミニコラム

モスリン友禅とは?

モスリン友禅とは、明治から昭和戦前期に普及した、薄手のウールの平織物に型友禅で華やかな模様を染めつけた生地のこと。
江戸時代、庶民は綿や麻、上流階級は絹の着物を着用していました。駒治郎が生まれた2年後の1868(明治元)年、明治維新により西洋からの生地が輸入されるようになり、そのうちの一つにモスリンがありました。
モスリンは絹より安価で丈夫なこともあり、最初は上流階級を主体に使用されていましたが、1894(明治27)~1895(明治28)年の日清戦争前後、好景気に沸いた日本で一般庶民にまで広く普及しました。