「神田屋田村駒商店」創業

Index

  1. 01.「意匠の田村駒」誕生
  2. 02.1度目の移転【1896(明治29)年】:東区伏見町五丁目へ
  3. 03.2度目の移転【1897(明治30)年】:安土町四丁目心斎橋筋南西角へ

「意匠の田村駒」誕生

1894(明治27)年3月15日、27歳の田村駒治郎は、実弟の23歳であった平松徳三郎と共に、大阪市東区平野町五丁目魚の棚に「神田屋田村駒商店」の看板を掲げ、洋反物商として創業しました。

店舗は、間口わずか一間半(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)の小さな借家。当時米百石(約15トン)分に相当する創業資金500円は、岡島合名会社からもらった功労金と駒治郎自らの積立金をあてたものでした。

失敗すれば無一文。それでも駒治郎は「必ずモスリンをはじめとする洋反物は広く大衆に普及する」と時代を読み取り、自身の商売の成功を確信していました。

創業当初、駒治郎は岡島合名会社にも勤務していたため、田村駒商店の経営は弟の徳三郎が実質行い、母ムメを店番、出身地の池田村から1名入店してもらって、きりもりしていました。

岡島モスリン友禅を大阪市内で一手販売するという条件で、主人の岡島千代造氏を説得し、創業した田村駒商店。

その販売方法は、既存の座って客を待つ座売り方式ではなく、徳三郎が自らの背に商品を担ぎ、得意先を駆け回って販路を開拓するという、出張販売方式でした。
創業間もない頃に考案したモスリン絞りを、各地に売り広め、多額の利益を店にもたらしました。
この徳三郎の積極的な姿勢が、創業当初から売上を順調に伸ばす要因の一つとなったのです。


駒治郎は、販売の最前線で掴んだ経験を生かし、お客様の嗜好に合った意匠に磨きをかけ、独自の製品を創りだしていきました。
この点が他の洋反物商と一線を画しました。

主に茶系統の配色を多く使用し、菊、桜、牡丹といった日本の美を活かした図案を考案していきました。

  • ウールモスリン友禅生地。写真は明治中期のもので、桜をモチーフにしている。

田村駒商店と共に岡島合名会社も成長を遂げ、資本金も1万円から2万円へと増額し、友禅業者として名を馳せました。
駒治郎は、岡島合名会社への出資金から得た配当金を田村駒商店の運転資金へ回すことができたため、田村駒商店は資金面でも有利に展開していきました。

1度目の移転【1896(明治29)年】:東区伏見町五丁目へ

モスリン市場の急拡大という時流に乗り、田村駒商店は着実に商勢を伸ばし、わずか2年足らずで半期500円〜1000円もの利益が出るようになりました。

そして1896(明治29)年、本モスを扱う先輩店が軒を連ねる東区伏見町五丁目の、間口三間半(約6.4m)、奥行五間(約9m)という大きな店舗への移転を果たしたのです。

同年の4月23日には、京都の高田市兵衛氏の長女ふくを妻に迎え、店は一段と充実していきました。

2度目の移転【1897(明治30)年】:安土町四丁目心斎橋筋南西角へ

伏見町の店舗もすぐに手狭となり、念願であった競合の洋反物商が集まる本町への進出を決意。
1897(明治30)年、東区安土町四丁目心斎橋筋南西角にある間口三間半(約6.4m)、奥行六間(約11m)、家賃30円の店舗へ移転を果たします。
店員も開店当初の1名から5名に増え、店は活気に溢れました。

創業してわずか3年にして2度の移転を果たした田村駒商店。
1898(明治31)年には、店舗の裏にある家も借り、田村駒をさらに発展させる「意匠室」を業界に先駆けて設置しました。
設置当初は、その存在を隠していた駒治郎。
図案家の一人が、客らしき人物に「意匠室」の存在を聞かれるがままに漏らした時には、ひどく叱ったそうです。
それもそのはず、当初は図案の模倣、盗用は当たり前のことで、強みである意匠図案を盗まれれば商売にも響くと考えていたからでした。

順風満帆な「意匠の田村駒」。さらなる飛躍を遂げる挑戦をしていきます。