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初の委託加工輸入「傘菊」で飛躍
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日本柄輸入更紗の成功
安土町に2度目の移転をした頃から、輸入の金巾更紗が人気を博していました。
田村駒商店も取り扱いを始めましたが、その模様は外国人の趣味を基調としているため、どうにも日本人の好みに合わないと感じた駒治郎。
「日本人の好みに合う模様にすれば、売れ行きは間違いなく飛躍的に伸びる」。
そう直感した駒治郎でしたが、当時の日本には染色技術や設備がありませんでした。
考え抜いた結果辿り着いたのは、図案を日本で作り、染色を海外に委託するという、今でいう「委託加工輸入」という、当時では画期的な手法でした。
駒治郎は自ら一年先の流行を予測して図案を練り上げました。
下絵として描き出されたのは、茶色とクリーム色の二色で構成された、粋な「傘菊」。
この下絵を携えて、駒治郎は徳三郎と共に神戸の外国商館へと向かいました。
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日本柄金巾更紗「傘菊」
初めは商館街に足がすくみ、行ったり来たりとためらっていたものの、意を決して英一番館(ストロン商会)の門を叩きました。
責任者との面会を求めた駒治郎。夜学で培った英語を駆使し、下絵を見せながら頼み込みました。
「この日本柄を英国の捺染工場で製品化してほしい」。
その熱意に動かされた商館側はついに、前代未聞の委託加工を引き受け、遠く英国のマンチェスターに下絵を送り染色することを約束してくれたのです。
機械による大量生産のため、最低注文量は一柄につき100反でした。店舗を移転したばかりで資金が乏しい中での100反の発注は、まさに社運を賭けた大勝負でした。
半年以上の月日が流れた1900(明治33)年7月、ついに製品が日本に届きました。
駒治郎と徳三郎は大八車を引いて神戸へと引き取りに向かいます。
途中昼食をとりながら、「もし仕上がりが悪ければ、店を畳む覚悟をしよう」と語り合ったほど不安で胸がいっぱいでした。
しかし、いざ中身を確認してみると、二人の目に飛び込んできたのは、予想を遥かに上回る見事な出来栄えの更紗でした。
ちょうど新柄の見本開きの時期にあたっており、早速その新製品を店先へ。
輸入更紗でありながら、日本柄がついているという噂が瞬く間に広まり、店先は客で溢れかえりました。
売り契約は短期間で終わり、すぐさま追加発注が必要なほどの爆発的な人気を博しました。
この成功により、駒治郎はさらに松に鷹の模様など、友禅染めの雰囲気を持たせた更紗の図案に磨きをかけ、年々柄数、発注量を増やしていきました。
一反3円50銭で仕入れた品が4円50銭で飛ぶように売れ、田村駒商店は高利益を上げるとともに、同業の問屋にも販売したため販路を広げることにもなりました。
交通も通信も不便な時代に、翌年の流行を予見して海外へ発注する駒治郎の度胸と先見の明は、誰にも真似できるものではありませんでした。
この日本柄輸入更紗の成功が、田村駒商店を「三大洋反物商」へと一気に飛躍させたのです。
3度目の移転【1903(明治36)年】:丼池筋寄りの安土町四丁目五十五番地へ
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新店舗前に集合した従業員たち。
駒治郎は、従来の借家から脱し、借家付きの建物を購入、洋反物商としての体裁を整えたのです。
この新店舗の内部では、組織と得意先へのサービス向上のための工夫が凝らされました。
まず、幹部室を設け、店内の状況が一目で眺められるよう、重要な部分をガラス張りにしました。
次に、一部の棟を3階建てにして、そこに意匠室を移転、意匠部を新設し、主任を配置しました。
これは駒治郎が常時意匠部に出入りし、采配を振るえるように考えたものでした。
さらに、会計のための帳場を一室を設け、会計主任も置きました。
このように店舗と組織を一新することによって、田村駒商店の揺るぎない基礎が築き上げられたのです。



