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第一次世界大戦による好景気と成長
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飛躍に伴い株式会社体制へ
1914(大正3)年に欧州で第一次世界大戦が勃発すると、日本経済は「大正神武景気」と呼ばれる大きな成長期を迎えました。
戦火を免れた日本からの輸出が急増し、莫大な貿易黒字が計上された結果、繊維業界はかつてない好況に沸き、生産を大幅に拡大しました。
田村駒商店も社長の駒治郎による商品開発力と、弟の徳三郎による販路開拓力が相まって、業容は拡大、成長を遂げていきました。
しかし急速な拡大は、それまでの個人商店体制での業務の管理や規律の維持に限界をもたらします。
そこで1918(大正7)年4月、田村駒商店は資本金200万円の株式会社田村商店へと改組を果たします。
別家に金側時計を、正社員には銀側時計を、準社員には万年筆を贈り、改組を祝いました。
また、この機会に電話交換機が設置され、電話交換手と経理担当として女性2名を採用、田村駒商店の女性社員第1号となりました。
この組織変更は、近代化への大きな一歩を意味しました。
翌1919(大正8)年には、純利益は前年の約7倍、配当金は約12倍にも達するほどの好成績を納めます。
さらに、モスリン友禅の大衆化に対応するため、友禅工場を分離独立させ「田村駒友禅紡糸会社」を設立するなど、体制を整えていきました。
続く船場の因習~丁稚奉公制度~
組織は株式会社という近代的な外観を整えましたが、その内部では、商家の伝統的な職住一体・主従同居といった、船場の商店文化が色濃く継承されていました。
店員は番頭、手代、丁稚の三段階に分けられ、彼らは一人前の商人を目指しました。
丁稚は朝早くから店の掃除をこなし、荷造りなどの業務を夜遅くまで行います。
その他ゴミ捨て、風呂の掃除、買い物、布団の用意など生活のあらゆる雑務をこなしました。
丁稚から、手代、番頭と昇格していき、長年の勤めを通じて実力を示した店員には、入店から10年以上経つと、別家が許されました。本名で呼ばれるようになり、妻帯も認められるようになるのです。
現代では考えられないほどの厳しい生活でしたが、これは「商いを覚えよう」という商人の卵たちの気概、ド根性があったからこそ、耐え抜かれたものであり、奉公とは厳しく辛いものだという当時の風潮の中で、彼らは成長していきました。
この苦難に耐え抜いた先人たちは、軍隊生活も「大した苦労ではなかった」と語ったそうです。
また苦しい生活の中にも、楽しさはありました。
例えば、大阪市青年による対抗相撲大会で田村商店が勝利を収めた際には、社長の駒治郎が選手一同に10円の紙幣を振る舞い、二重の喜びを味わったそうです。
店員と経営側が一体となって楽しむ演技会も催され、『忠臣蔵』などを演じ、笑い合ったといいます。
厳しい生活のなかにも、田村商店には家庭的な雰囲気があり、主人と店員は単なる雇用関係を超え、情で結ばれていました。
厳しさと情で商人根性を叩き込まれた先人たちが、田村駒の歴史を力強く築きあげていったのです。



