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アパレルODM強化と住宅・産業資材の興隆
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七代目社長に冨士智之が就任
2003(平成15)年6月、七代目社長に冨士智之が就任しました。
2003(平成15)年から2009(平成21)年までの6年間は、アパレルODM事業の確立、そして住宅・産業資材事業の成長が加速しました。
冨士社長の生い立ちと人となり
1944(昭和19)年に誕生。
1966(昭和41)年に京都大学法学部を卒業後、三和銀行に入行。
外国業務部長やロンドン支店長を務めるなど語学に長けていました。
1994(平成6)年から取締役、1997(平成9)年から常務取締役を務め、1999(平成11)年6月に三和アセットマネジメント株式会社の代表取締役社長に就任します。
田村駒には、2001(平成13)年6月に代表取締役専務取締役総務本部長として入社。
そして2003(平成15)年6月から代表取締役社長に就任しました。
冨士社長の日課は、朝カフェでコーヒーを飲むこと。ロンドンではカフェが多いのに、大阪は少ないとぼやいていたそうです。
ビジネスでは、クールで合理的。六代目社長の山藤が赤い炎であったとしたら、冨士社長は青い炎。
淡々と冷静な口ぶりで指摘を受けた当時の社員は「青い炎」にピリッと引き締まったと言います。
新たな経営理念と「第5次中期経営計画」の始動
110年の歴史を背景に「変革と創造」を掲げた新しい経営理念が策定され、同時に「第5次中期経営計画」がスタートしました。
スローガンとして「顧客信頼度ナンバーワンの繊維専門商社」を掲げ、単なる素材売買にとどまらない、真の企業価値向上を目指す体制が整えられました。
東京・原宿市場におけるアパレルODMの強化
冨士社長体制下で最も注力した戦略の一つが、東京・原宿市場におけるアパレル・SPA(製造小売)向けビジネスの強化でした。
量販店向けアパレルを主力に、取引を拡大していた田村駒でしたが、1990年代の平成不況突入で主力取引先が経営に行き詰まりを見せていました。
2000年代に入っても、主力取引先の経営がなかなか回復せず、このままでは田村駒のアパレル部門が解散してしまう、という危機感が漂っていました。
そこで目を向けたのが、東京・原宿でした。
原宿にはファッション感度の高いアパレルブランドが集まっており、開拓することを決めたのです。
2004(平成16)年10月、東京・原宿に「青山営業所」を開設。
さらに2006(平成18)年4月には「原宿衣料事業部」を新設。3か月後の7月には、青山営業所と東京のSPA向けチームを統合した「原宿事業所」を開設しました。
ファッションソフト室による企画提案機能やCAD設備を駆使し、素材開発から製品化までを一貫して担う、田村駒独自のOEM・ODM事業モデルが確立していきました。
建築・産業資材の興隆
繊維製品が厳しい市場環境に置かれる中、建築資材や産業資材を扱う部門が新たな収益の柱として台頭しました。
2006(平成18)年度には、産業資材分野をベースにしたビジネスを強化しつつ、新販路開拓のために「ライフスタイル室」を新設。
建築関連部門は、2008(平成20)年度には前期比10.2%増の売上を記録するなど、成長を続けました。
グローバル生産・品質管理体制の構築
「繊維のプロ」として高品質な製品を安定供給するため、海外生産拠点の拡充と品質管理の徹底が進められました。
2006(平成18)年9月に中国北部の生産拠点として「大連事務所」を、2007(平成19)年8月にはベトナムに「ホーチミン事務所」を開設し、海外ネットワークを拡大させました。
さらに、品質向上のため「品質管理室」を設置。
国内外のスタッフが増強され、工場への定期巡回による技術指導を行うことで、不良品を出さない生産体制が強化されました。
こうして冨士社長体制においては、生地から二次製品、特にアパレル・ファッションへと主力商品が変化し、非繊維分野の建築・産業資材も興隆しはじめたのでした。



