総合力で「メーカー型商社」へ

Index

  1. 01.激動の時代に「生え抜き社長」が舵を取る
  2. 02.市川社長の生い立ちと人となり
  3. 03.アパレルODMビジネスの進化
  4. 04.非繊維の製造基盤強化で「メーカー型商社」へ
  5. 05.東京の二拠点を統合で「東京本社」誕生
  6. 06.「総合力」を発揮する未来への展望 ~海外輸出強化へ~

激動の時代に「生え抜き社長」が舵を取る

2009(平成21)年6月、田村駒の八代目社長に市川政彦が就任しました。

当時はリーマンショック後の深刻な景気後退の渦中にあり、雇用・所得環境の悪化から個人消費が激しく落ち込んでいました。
繊維業界においても、消費者の低価格志向の高まりによる値下げ競争が激化。
衣料品消費が低迷するという、極めて厳しい経営環境下での船出となりました。

市川社長の生い立ちと人となり

市川社長は、1951(昭和26)年に山梨県甲府市の郊外で生まれました。戦後の混乱がまだ残る中、父親は8年間に及ぶ従軍経験から精神的な虚脱状態にあり、仕事に勤しむことができませんでした。
裕福な家庭とはいえませんでしたが、自然溢れるなかのびのびと育ちます。

しかし小学校に上がる頃、母親の故郷である大阪へ。転校当初は関東訛りを揶揄されましたが、気が付くと「ケンカは一番」のガキ大将として成長。やんちゃな少年期を過ごしました。

勉強に打ち込むタイプではありませんでしたが、進学校へ進学。
しかし隙さえあれば学校をサボり、友人と山登りをしたり自然と戯れる日々を送ります。

そのような中、転機が訪れます。

いつものように学校をサボった次の日に登校すると、門が閉鎖され校舎に入れませんでした。
当時大学を中心に行われていた「学園紛争」が、通っていた高校でも行われたのです。

授業がなされず、バリケード封鎖された校舎で繰り広げられる社会政治の討論は1週間にも及びました。
この経験で、自身の無知を恥じると同時に、「もっと政治や経済のことを勉強しなければ」と目覚めたのです。

その後、仲間と楽しく過ごした高校をなんとか卒業し、浪人時代へ。
浪人時代も高校の仲間が昼間に遊びに誘ってきてくれるためなかなか勉強に実が入らない日々が続きます。

受験まであと3か月という時に、いよいよマズいと思い、昼夜逆転で一日10時間勉強に励む日を開始しました。

晴れて立命館大学経済学部に入学を果たし、大学では西洋経済史に興味を持ち、本を読んだり自己流の勉強を行いました。

西洋経済史に触れるなかで、繊維産業に少し親しみを感じていたこと、また本町周辺に馴染があったこと、福利厚生や給料の高さに魅力を感じ、田村駒を受験します。
面接で人の雰囲気がとても良いと感じた市川青年。

「ここならこんな僕でも長く勤務できそう」

そう直感し、1975(昭和50)年4月、田村駒に入社しました。

大阪本社にて、合繊生地の部署に配属されたのち、わずか数年でその事業から撤退することを命じられた市川青年。業績もあげていたのにと悔しい思いをしました。

そこで「ファッション製品をやってみたい」と上司に申し出た市川青年。
自らアパレル会社を立ち上げ、一からブランドを創り拡販へ向けて尽力しました。

しかし、事業は撤退を余儀なくされ、その後はブラックフォーマル向け合繊生地の営業担当として活躍しました。

1年半ほどしたのち、ファッション製品部署への異動を打診されます。
ファッション製品はもうコリゴリと思っていましたが、上司の説得に折れ、再びファッション製品の営業担当として歩み始めました。

その後、プラザ合意による円高を背景に、海外製品ビジネスの営業として結果を残し、課長に昇進するものの、急激な円安へのシフトや販売先倒産などで失敗。一度課長を降格にもなりました。
しかしその後、地道な努力を重ね、量販店向けのアパレル部門の部長を務め、原宿への進出の舵取りも行いました。

入社してから営業一筋の経歴を歩み、2000年に取締役に就任、その後専務となって、2009(平成21)年6月から、代表取締役社長に就任しました。

田村駒において初めての「生え抜き社長」の誕生。

冨士社長から「次、社長やらない?」と言われ、自信がないからと、断る選択肢も頭をよぎったそうです。しかし、挑戦してみようと、その重責を担う覚悟を決めました。

繊維営業の現場は知り尽くしていても、経営は未知の領域だった市川社長。
銀行出身の専務から、経営のいろはを教わりながらの二人三脚で、市川新社長の挑戦が始まりました。

アパレルODMビジネスの進化

市川社長時代、田村駒が力を入れた取り組みは2つありました。

一つは、アパレルODMビジネスの付加価値向上です。

ファッションソフト室の充実を図り、ソフト面での提案力に磨きをかけました。年に数回、外苑前駅のテピアで行われたアパレル総合展示会では多くの方が来場し盛り上がりを見せました。

提案力に加えて、生産、品質管理、貿易などを一気通貫で対応するビジネスモデルを確立していきました。

特に海外での生産背景を強化しました。
重要生産拠点である中国には、2011(平成23)年に天津に駐在員事務所を設立。
同年、江蘇省塩城市に中国企業と合弁による縫製工場「江蘇新田時装有限公司」を設立し、生産基盤の安定化を図りました。

2013(平成25)年には香港法人を通じて「上海東京時装有限公司」を買収し、高級婦人服の生産機能を強化しました。

アセアン地域においても、ベトナムでの縫製ライン契約を締結、生産が開始されました。ミャンマーのヤンゴンに事務所を設置し、2012(平成24)年から専用の縫製ラインを構築、生産規模の拡大を図りました。

こうした海外での生産機能を強化すると同時に、品質管理のノウハウも蓄積されていき、安定した生産基盤が確立していきました。

非繊維の製造基盤強化で「メーカー型商社」へ

もう一つの力を入れた取り組みは、非繊維分野の製造基盤強化です。

市川社長は、祖業である繊維ビジネスは大切に継続させていく必要はあるが、新たに大きな柱となる事業への投資が必要と判断しました。

2014(平成26)年の12月に、プラスチック成型・組み立て機能を保有するため、山城工業株式会社を買収しました。

2015(平成27)年10月には、取引先との取組み強化のため、静岡事務所と栃木事務所を開設。

2016(平成28)年3月には、グローバル調達拠点およびタイ国内への拡販を目的に、タイの現地法人も設立させました。

この施策により、非繊維分野の販売は順調に推移していきました。

東京の二拠点を統合で「東京本社」誕生

先述の取り組みを進める間に、東京拠点の整備も進めた市川社長。

東京での部門間の連携を促進させ、東京市場の更なる開拓を目的に、現在の渋谷区東京本社ビルを購入。

創業120周年となる2014(平成26)年11月、日本橋大伝馬町にあった東京支店と、原宿事業所を統合し、現在の社屋に移転を果たしました。
支店ではなく「東京本社」とし、大阪と二本社制を取ることにしました。

この東京本社ビルには、ゆったりとした食堂があり、天井高の広々とした展示場が備わり、最上階からは東京の景色が一望でき、素晴らしい眺めを楽しむことができます。
パーティーには多くの方が訪れ、東京での新たな門出を祝いました。

「総合力」を発揮する未来への展望 ~海外輸出強化へ~

2015(平成27)年から始まった「第9次中期経営計画」では、『総合“力”商社「田村駒」~人と機能を絡ませた総合力を発揮し、顧客から最も信頼されるパートナーとなり、田村駒の一員であることを誇りに思える企業を目指します~』を全社スローガンに掲げました。

具体的には①流通の短絡化への対応 ②海外でのビジネス強化 ③新たなビジネスの創造という課題に取り組むことを決意しました。

市川社長時代の田村駒は、2つの力を入れた取組みが功を奏して、業績は伸長、下降路線を辿っていた売上を1000億円代に戻すことができました。
アパレルODMビジネスおよび非繊維分野での製造基盤強化により、自社生産背景を強みにもつ「メーカー型商社」として、独自の立ち位置を確立していったのでした。