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バブル景気から平成不況を経て次の100年へ
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バブル景気到来~円高による影響が各分野に、海外輸入が加速~
1985(昭和60)年9月の「プラザ合意」で円高の促進が確認されると、日本政府は不況を避けるべく、低金利政策や財政出動を行いました。
これをきっかけに、バブル景気が到来します。
バブル景気でも田村駒は「積極的堅実」を標語に、①売上・利益・在庫のバランスを考慮した営業基盤の強化、②大阪本社・東京支店一元化の効率をさらに高めること③業容の拡大などを経営方針に据えました。
円高の影響は各分野に及びました。
▶寝装・寝具
寝装・寝具分野は、円高による綿相場の下落で、綿製品が大打撃。組織改革を実行し、影響を最小限にとどめました。その後も相場の上下があり、不安定な時期が続きました。
一方で、高級志向の高まりから、綿更紗プリント・羽毛・羊毛用プリントといった付加価値の高い商品は伸長しました。
▶インテリア
インテリア分野では、新規住宅着工数の大幅増加に伴い、カーテン需要も増加、大手取引先との連携強化によって、好成績を納めていきました。
▶非繊維
非繊維分野も、建材を始め、コンピューター、OA機器の販売が順調に伸長し、業績に貢献していきました。
さらに円高は、二次製品の海外生産および輸入に拍車を掛けました。
田村駒では、韓国や中国を中心に、輸入体制の確立を進め、上海と北京に駐在員事務所を開設しました。
この頃、多品種・小ロット、高品質など、消費者の要求は年々高くなり、国内生産がまだまだ主力。
しかし円高を背景に、特にアパレル・衣料分野が海外生産にシフトしていったのです。
バブル崩壊で平成不況に ~更なる円高で業容転換期に突入~
好況に浮かれていたのも束の間、1990(平成2)年〜1993(平成4)年にバブルが崩壊。
平成不況に突入、円高はさらに加速していきました。
田村駒の業容も大きな転換期を迎え、2つの大きな方針を打ち出します。
1つ目は、従来の生地主体のビジネスから、衣類などの「二次製品」シフト強化策をこれまでより強く打ち出しました。
結果、1984(昭和59)年にわずかであった衣料分野の二次製品比率は、1991(平成3)年には30%強に増加。寝装分野でも同様の傾向となりました。
それに伴い、有名ライセンスブランドや、人気キャラクターを従来にも増して導入、商品企画・開発に注力しました。
2つ目は、 円高を背景とした価格競争力強化のため、青島、韓国、台湾など、次々と事務所を開設しました。
1991(平成3)年2月には、香港の企業に資本参加し、合弁会社を設立。縫製輸入を開始しました。
その結果、海外生産品が高い割合を占めるようになっていきました。
国内生産が主体であったパジャマは、ほぼ中国製品に変わるほど劇的な変化を遂げたのでした。
新本社ビル竣工と21世紀への幕開け
昭和から平成という新しい時代が始まろうとしていたとき、田村駒はさらなる躍進のため拠点整備を進めました。
約3年の歳月をかけ、1990(平成2)年、3月12日に大阪新本社ビルが竣工しました。
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取り壊し前、思い出の大阪本社ビルとのお別れパーティー。老朽化していたが、散髪屋が社内にあるなど古き良き建物であった。
竣工式と取引先を招待しての盛大なパーティーが開催されました。
この新本社ビルは、イタリア産花崗岩を用い、上品で端正なシルエットをもつシンプルな外観に。内部はゆとりのある事務スペースを確保し、人と人のコミュニケーションを重視した空間設計がなされました。
また、1991(平成3)年2月には、東京支店ビルの新築工事も開始され、翌1992(平成4)年9月に、地上9階から地下1階のオフィスが完成しました。
薄いベージュのセラミックパネルによる外壁、柱のないシンプルで効率的な各解のスペース、採光のため大きく切り取られた窓など、清潔感と温かみのあるオフィスとして好評となりました。
こうして江藤社長時代の15年間、田村駒は景気の急上昇・急下降を経験しながら、生地以外の分野を広げようと挑戦を続け、次の100年に向けて弾みをつけたのでした。
五代目 石井宏社長の就任と経営ビジョン
創業100周年という大きな節目を目前に控えた1991(平成3)年6月、江藤善七郎は代表取締役会長に就任し、石井宏が第五代社長に就任しました。
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会長・社長就任披露パーティーの時の写真。
石井新社長は就任の挨拶において、「足腰の強い会社」「存在感と存在意義のある会社」を目指すことを強調しました。
その具体策として、景気に左右されない強靭な企業体質の構築と、取引先から信頼と期待を集める企業像の確立を課題に掲げました。
石井社長の生い立ちと人となり
石井宏は、1928(昭和3)年に誕生。
1951(昭和26)年3月に東京商科大学を卒業後、三和銀行に入行します。
1978(昭和53)年に三和銀行の常務取締役、1982(昭和57)年7月に興和火災海上保険株式会社の代表取締役専務を務めたのち、1991(平成3)年2月に田村駒の代表取締役として入社。同年6月に社長に就任しました。
田村駒の社員からは、「知的な大学教授のような印象」「真面目で紳士なイメージ」を持たれていました。
「第1次中期経営計画」スタート
石井社長は直ちに「中期経営計画」の策定を決意し、1992(平成4)年12月から、2年間を対象とした「第1次中期経営計画」をスタートさせました。
石井社長の就任期間も、長引く平成不況、急激な円高、冷夏や長雨といった異常気象など、極めて厳しい外部環境に晒された時期でした。
石井社長は「繊維専門商社としての機能の充実」「海外を視野に入れたビジネスの構築」「活力溢れる企業風土の確立」を基本方針に掲げ、将来を見据えた構造改革を推進し続けました。
1992(平成4)年度は、売上高1178億8000万円を記録。
アパレル部門で二次製品の取り扱いが拡大したことが、業績に寄与しました。
しかし、景気低迷の深刻化などが響き、1993(平成5)年度〜1994(平成6)年度にかけては、売上高1000億円以上はキープしているものの、下降路線を辿っていきました。
創業100周年と未来への決意
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創業100周年記念祝賀会の様子。
厳しい環境のなかではありましたが、ついに、1992(平成4)年後半から創業100周年に向けてカウントダウンが始まりました。
同年8月に、100周年記念行事委員会が発足。
委員会は、「社員・OB合同祝賀パーティー」「物故者追悼慰霊祭」「御堂筋彫刻ストリートへの彫刻の寄贈」「100万円の夢企画」「100年史の刊行」「記念テレフォンカード」「アニバーサリーマークの使用」など、8項目にわたる記念行事の概要をまとめ、着々と準備を進めました。
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記念テレフォンカード。
そんななか、経営面では、1993(平成5)年10月1日、資本金を12億4000万円に増資。21世紀のスタートへ向けて、自己資本の充実を図りました。
そして1994(平成6)年3月15日。
田村駒は創業100周年の記念すべき日を迎えました。
記念パーティーには大勢の方が詰めかけ、思い出話に花を咲かせながら、たくさんの笑顔が会場に溢れました。
次の100年に向けて、さらなる挑戦が続くのでした。
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屋外でもお茶や甘味が振る舞われた。
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100年の歩みを写真にて展示。



