「積極的堅実」を掲げて改革推進

Index

  1. 01.江藤善七郎が四代目社長に就任
  2. 02.江藤善七郎の生い立ちと人となり
  3. 03.社員への注文「自主独立の精神を!」
  4. 04.組織改革と伝統ある「田村駒」の社名に
  5. 05.経営三ヵ年計画スタート〜売上高1160億円目標に。社内論文企画も話題~
  6. 06.売上高1000億円前倒し達成! 〜キャラクター、輸入、非繊維など仕掛ける~
  7. 07.創業85周年を迎えて

江藤善七郎が四代目社長に就任

過去最高益での喜びも束の間、1973(昭和48)年10月のオイルショックを契機に、日本はたちまち不況に陥りました。

徹底した堅実経営のおかげで、打撃を最小限にとどめることができましたが、田村駒にも再び緊張ムードが走りました。

そのような中、1976(昭和51)年2月16日、直原一雄は会長に退き、三和銀行の専務取締役であった江藤善七郎が、田村駒の第四代代表取締役社長に就任しました。

田村駒の社長にと直原に依頼された時、あまり気乗りしていなかったという江藤社長。新しい世界へ飛び込む煩わしさがあったためでした。

しかし、先輩である直原氏を尊敬していたこと、田村駒社内に歓迎してくれる雰囲気があることを知り、600名の社員の幸せのために余生を捧げようと決意したそうです。

江藤善七郎の生い立ちと人となり

江藤善七郎は、1918(大正7)年3月24日、大阪・淀屋橋の貴金属商の創業者の六男として生まれました。
そのため船場商人に対しては、親近感を持っていたそうです。

東京大学法学部を卒業後、三和銀行に入行。
経理部長、審査部長、総務部長、営業本部長などを歴任し、1975(昭和50)年に専務取締役に就任する経歴をもったバンカー一筋の人物でした。

数字に強い確かな実力を備えつつ、柔らかな物腰と大阪弁で話す気さくな雰囲気は、社員から「最初廊下ですれ違っても、まさか社長とは思わなかった」といわれるほどの親しみやすさがありました。

敬虔なクリスチャンでもあり、社長就任後すぐに田村家の墓参りを行い、先人が築いた基盤に感謝を捧げ、礼節を忘れない人でもありました。

  • ピアノを弾く江藤社長。社内イベントの際にはよく演奏してくれた。

社員への注文「自主独立の精神を!」

江藤社長は社長就任の挨拶で次のように社員を鼓舞しました。

「田村駒はおとなしすぎる。とくに若い人達はもっとファイトを剥き出しにしてもよいのではないか。他社から、いつまでも社長を迎えるような会社ではいけない。諸君らは自主独立の精神を持って、早く諸君の中から社長をだせるような会社にならなければ駄目だ」

また社是を「明るい活力に富んだ会社、厳しさのある会社、明日のある会社」と決めました。

さらに、自ら100名にのぼる部課長と連日のように個人面接を行い、雑談を交えながら熱心に仕事の進め方について語り合いました。
一般社員に対しても、提案があればどしどし申し出るようにと要請。

ビルが汚れていると社員の士気に響くとして、社屋ビル全館の外装を塗り替えさせるなど、気分を一新させようと試みました。

こうしたエネルギッシュな江藤新体制のもと、社員一丸となって更なる飛躍を目指す体制を整えていきました。

組織改革と伝統ある「田村駒」の社名に

1973(昭和48)年の第一次オイルショックをきっかけに高度経済成長期は幕を閉じ、日本経済は深刻な不況にみまわれました。

倒産は相次ぎ、多くの企業は減量経営に徹するなどして業績悪化に歯止めをかけようとしました。

そのような中、高度経済成長期に田村駒は徹底した減量経営をとっていたことで、これ以上取り去るところがないほど細身の企業体質になっていました。
そこで江藤社長は「消極的堅実から積極的堅実へ」をスローガンに掲げ、拡大路線を打ち出したのでした。

まずは、業績の下降と経費上昇をカバーするには、売上拡大が必須と判断。
売上拡大のための組織変更を行いました。
1976(昭和51)年6月に企画調査部を新設、非営業部門の組織を改正しました。
特に企画調査部を設置したことで、部門ごとの意志疎通をよくするとともに、早期に対策が打てるようにしました。

さらに企画調査部に対して、売上高1000億円を目指す中期経営計画の策定を指示。
しかし、策定を進め始めたものの、業界の環境は一段と厳しくなり、見通しの立てにくい状態に。手直しの必要に迫られました。
そこで、課長級を中心に13名を選出、組織改善委員に任命しました。
外部の経営コンサルタントも交え、企業体質の改革、強化のための方針について連日検討を重ねました。

結果、企画調査部を発展的に解消し「総合企画室」を設置すべきこと、用途別の組織再編成が適当であるとの意見書が提出されました。
この意見書に基づき、1977(昭和52)年6月、総合企画室を設置。
具体的には、「経営三カ年計画」の立案、長期ビジョンの策定、新規事業の開発、業界動向の調査などに取り組みました。

また、1977(昭和52)6月〜12月にかけて、合化繊部門の営業第一本部、寝装・寝具部門の営業第二本部、インテリア・貿易部門も営業第三本部を、用途別組織に改正しました。

さらに1977(昭和52)年3月1日には、社名を「田村駒常盤」から伝統ある「田村駒」へと復帰させました。
経営危機の際に大きく損失補填に貢献していた金属部門でしたが、その後業績が悪化、金属部門を分離していたため、実態と合っていないとして「田村駒」に戻したのでした。

こうして、名実ともに再建時代の色は消え、「積極的堅実」経営を進める体制が整ったのでした。

経営三ヵ年計画スタート〜売上高1160億円目標に。社内論文企画も話題~

1978(昭和53)年、最終年度の売上目標を1160億円、経常利益を7億円に設定した「経営三ヵ年計画」をスタートさせました。

①衣料部門の売上増進を図ること
②既存取引先のパイプを太くし地方問屋向けに二次製品の販売を強化するとともに新規開拓もすること
③東南アジアを中心に海外の加工基地を開拓、輸入を拡大すること
④一人当たりの売上高を高めること
⑤非繊維部門の積極展開を図ること

上記5つを戦略骨子としました。
これらの施策を実施するためには、社員の意欲ある行動が必要であることから、社員の質的向上策も計画に盛り込まれました。

具体的には、外部から専門家を招いた研修会をスタートさせ、三ヵ年計画実施に伴う社内検討会を頻繁に開催、能力賃金制度の導入に備えた管理職研修なども、土日返上で行われました。

1978(昭和53)年、株式会社組織化60周年を記念し、「繊維専門商社の将来を論ず」というテーマで社内論文も募集。
64編の応募があり、社員の意識改革を促したと同時に、読売、毎日、産経新聞などの紙面で大きく取り上げられ、世間の話題をさらったのでした。

売上高1000億円前倒し達成! 〜キャラクター、輸入、非繊維など仕掛ける~

キャラクターライセンス商品で二次製品拡販へ

商品開発の最前線では、素材供給から一歩踏み出した「二次製品」への挑戦を、キャラクターのライセンスビジネスによって加速させました。

当時人気のキャラクターをつかったビジネスは、1978(昭和53)年頃から、衣料分野、寝装・寝具分野、インテリア分野、和装分野、資材分野にまで展開されました。

1979(昭和54)年3月5日~9日まで大阪本社5階ホールでキャラクター商品の「総合内見会」を開催すると、地方問屋、アパレルメーカー、生地問屋、原糸メーカー、専門店、量販店の各担当者がつめかけ大盛況となりました。

その後も次々と人気のキャラクターをつかった商品を生み出していきました。
特に寝装・寝具分野が、キャラクタービジネスを加速させる以外にも、羽毛・羊毛布団用生地の開発、大手販売先の新規開拓に成功するなど、業績に大きく貢献しました。

  • 写真は1991(平成3)年の展示会にて。

中国委託加工輸入開始

輸入の面では、韓国、台湾、中国からの輸入を増加させており、1978(昭和53)年6月に中国室を設置、2つの公司と委託生産加工の契約が成立し、1979(昭和54)年6月から開始することができました。

日本から機械一式を輸出し、技術指導を行うなどして次第に良質な商品を生産できるようになりました。

建設・住宅事業で非繊維分野拡大へ

非繊維部門の拡大として、1978(昭和53)年4月に建設・住宅関係の子会社「田村駒エンジニアリング株式会社」を設立。

1979(昭和54)年7月には、繊維以外の新規事業に積極的に取り組むことを目的とした「ハウジング開発室」が設置されました。

景気回復も重なったことと、こうした三ヵ年計画に基づいた施策が功を奏し、1979(昭和54)年11月期の決算で売上高1045億円、経常利益5億を記録、目標を1年前倒しして売上高1000億円を突破したのでした。

創業85周年を迎えて

1979(昭和54)年3月には、創業85周年を記念した行事が行われ、江藤社長は、社章の定義を「外郭の〇を限りなく前進する輪、内にある×は自制の”タガ”であり、新生田村駒のモットーである積極的堅実を具現化したものだ」と新しい意味づけを行い、更なる飛躍を決意していました。

  • 写真は平成3年度に新入社員へ説明している時のもの。