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二代目駒治郎「復活」、積極経営を推進
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二代目駒治郎「復活」
1949(昭和24)年9月19日、二代目駒治郎が、「MP事件」での無罪判決、およびGHQによって発令されていた公職追放令が解除されたことにより、3年ぶりに社長への復帰を果たしました。
社長代行を務めていた実弟の寛次郎は「兄が復帰するまでの社長」と割り切っていたため、速やかに経営のバトンを渡しました。
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昭和24年9月、復帰直後の二代目駒治郎。
社長室に戻った二代目駒治郎の動きは、まさに猪突猛進。
まずは幹部人事の異動を行い、寛次郎を専務取締役とするなど、新旧のバランスを取った盤石の布陣を整えました。
1949(昭和24)年5月の生糸の価格統制廃止に続き、絹織物、麻織物、人絹織物、毛糸、スフ糸などの統制が次々と解除され、自由経済の兆しを見逃さなかった二代目駒治郎。
戦前、顧客に親しまれていた「田村駒商報」を、1949(昭和24)年10月1日に復刊、中断していた通信販売を再開させました。
「田村駒商報」の中で二代目駒治郎は、「田村駒が繊維商社として本来の機能を発揮できる時代が来た」 と、過去の栄光を再建するために努力することを力強く宣言、積極経営を推進していきます。
1949(昭和24)年11月8日・9日には、戦前恒例となっていた秋の新築記念日売り出しを「ビリケン祭」として復活。両日とも超満員となり大盛況でした。
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第1回ビリケン祭。
1949(昭和24)年12月~1950(昭和25)年5月の決算で田村駒は戦後初めての1割の配当を行い、続く1950(昭和25)年6月~12月の決算では、前期の14倍強の利益を計上、7割の高率配当を実現するほど順調に成果を出していきました。
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大阪本社ビル1階の荷受場。内需・貿易ともに躍進を続けていた昭和25年頃の写真。
戦後初の海外出張で輸出に拍車、対米輸出も開始
二代目駒治郎の視線は国内に留まらず、やはり世界へと向けられていました。
1950(昭和25)年1月、東京で配給業務を行っていた子会社の大日産業と、東京支店を合併し、「田村駒東京店」と改称して日本橋堀留に事務所を構えました。主に貿易事業拡大の重要拠点として期待されました。
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昭和25年秋物発表会当日の田村駒東京店。
1950(昭和25)年2月には、戦後初となる社員2名を海外出張へ送り出します。
社員2名は、日本人が自分たちしかいない機内で心細さを感じながらも、パキスタンやセイロンの地に降り立ちました。
セイロンのコロンボの現地新聞は「戦争に負けたのに、早くも綿布を売りにきた」と驚きをもって報じたそうです。
さらに社員2名は、220万ヤードという驚異的な成約を結び、帰国を果たしました。
この出張を皮切りに海外輸出も実績を上げていったのでした。
また二代目駒治郎は、対米輸出を増やすことこそ戦後の田村駒発展の鍵になると考え、1950(昭和25)年6月1日、横浜生糸検査所の1階に出張所を開設、生糸の対米輸出を計画しました。
早速ニューヨークへ社員を派遣、一流業者と提携し、委託方式による生糸輸出を開始したのです。
1953(昭和28)年頃には横浜でもトップクラスの生糸業者に昇り詰めていきました。
積極的な新商品開発
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昭和24年10月14日撮影。メリヤス製品、和装小物の売場の様子。
繊維の統制解除に伴い、商標を使ったメリヤスや、紡績メーカーとのスフモスリン、スフネルなど、次々に新商品を開発していきました。
特に、戦後急激にアメリカ化するライフスタイルを敏感に察知し、アメリカのファッションを先取りしたエンブロイダリー服地は、増加する働く女性たちの心を掴み、ヒット商品となりました。
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エンブロイダー服地の展示会の様子。
朝鮮動乱特需と本社ビル復活、組織改革実行
日本は1949(昭和24)年からの厳しい不況が、1950(昭和25)年になっても続いていました。
しかし状況は一転、1950(昭和25)年6月25日朝鮮戦争が勃発し、米軍特需が増大、好況に湧きかえりました。
繊維をはじめ、金属、機械、化学品その他の産業において、世界的な物資不足を見越した思惑買いや見越し輸入が増大、株式や市況が高騰していきます。
そのような中、1950(昭和25)年8月10日、田村駒本社社屋の全面的な改修が完了、戦前の姿を取り戻します。
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写真は昭和26年6月、7階が増築された大阪本社ビル。
売り場や大陳列場、ホールなどが拡張されたほか、来客用食堂なども新たに設けられました。来客用のエレベーターも復活し、喜ばれました。
1950(昭和25)年8月23日〜24日の2日間「社屋新装記念売出し」を開催、多彩な商品が並び一大イベントとなりました。
これを機に、消費者の趣向に十分適合した製品の開発と生産に乗り出す必要があるとして、社内機構も一新。扱い商品の種類ごとに課を設け、きめ細やかな営業体制を整えました。
戦中の物資不足の経験から、輸出だけではなく、輸入にも力を入れるため、1950(昭和25)年10月貿易部に輸入課を新設、輸入業務を本格化させました。
二代目駒治郎は総合商社を目指し、非繊維部門にも手を広げ、実弟寛次郎が社長の時に整理した出張所・連絡所も再び20箇所以上に拡大していきました。
しかしこの積極果敢な拡大方針は、慎重派の幹部との亀裂を生じさせていました。
初代駒治郎を支えた平松家の幹部社員も二代目駒治郎の積極経営と対立しており、戦時中の1944(昭和19)年6月30日に一斉に退職。
さらに1950(昭和25)年12月、幹部の人事異動を行い二代目駒治郎の近くには、積極経営に賛成する幹部のみが残る結果となりました。
これが後に二代目駒治郎を苦しめる一因となるのです。
二代目駒治郎アメリカ視察へ
苦しい未来が来るとはつゆ知らず、二代目駒治郎は1951(昭和26)年3月11日、約2ヶ月間にわたる北米各地の市場視察へと出発しました。
経済、産業界の動向を自らの目で直接確かめるとともに、生糸・絹織物の輸出、原綿・原毛を中心とする繊維原料の輸入について取引先を訪問し、さらなる輸出入ルートを拡大することが狙いでした。
卸売り業界としては戦後初となる視察であり、他社からも大いに注目されたそうです。
帰国後二代目駒治郎は、アメリカとの積極的な貿易は広く世界市場の動向を探るカギになることを強調しました。
当時は絶頂期にあり、社員たちは誰もが明るい未来を信じて疑いませんでした。
しかし、視察で掴んだはずの「勝機」が、皮肉にも田村駒を経営危機へと導くことになるのです。
ミニコラム
二代目駒治郎の趣味
犬の飼育にも熱中し、自邸「一楽荘」には犬舎を設けてドイツからチャンピオン犬を輸入、訓練士も招いて、何十頭ものシェパードを飼育しました。



