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終戦と「MP事件」そして清交会
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終戦「この地で田村駒を守り通したい」
1945(昭和20)年8月15日、日本は敗戦、終戦を迎えました。
空襲により近代的な本社ビルは外壁を残してほぼ全焼。
在庫商品は灰となり、かつて400人を超えた社員は、戦地への召集や徴用によって、わずか45人にまで減っていました。
売るものは何もなく、彼らは焼け跡から立ち上がり、とにかく売るものを求めて雑貨品の買い出しに走り回りました。
冬になれば、社員たちは寒さを凌ぐために板きれを燃やして暖を取り、生きるために手当たり次第商品を扱いました。
給料だけでは生活できず、社員が個人的な商売を並行して行い「半分は会社の仕事、半分は個人の仕事」という状態が続きました。
「戦地から戻ってくる仲間たちのために、この地で田村駒を守り通したい」
その一念だけが、焼け跡に立つ彼らを突き動かしていました。
海外資産は賠償物資として接収。
海外の関連会社や支店、出張所も次々と閉鎖に追い込まれ、社員たちは日本へと引き揚げることになりました。
「MP事件」で二代目駒治郎社長辞任
1946(昭和21)年2月9日の朝、社内に戦慄が走りました。
数人のMPと呼ばれるアメリカ陸軍憲兵が、ピストルを構えて、田村駒本社ビルに突然踏み込んできたのです。
4階に積まれた預かり物の綿布などが「隠退蔵物資」の疑いをかけられ、銃声が響く中で、二代目駒治郎を含め数人の管理職たちが連行されました。
後に無罪となりましたが、社員も動揺し、前途を危ぶんで退職する者もいたそうです。
対外的にも会社の信用を傷つけたとして、二代目駒治郎は責任を取って社長を辞任し、実弟・田村寛次郎が社長代行に就任しました。
元々紡績メーカーに務めていた寛次郎は「入社当初、商社の経営は砂上の楼閣のように感じた」そうです。
寛次郎を中心とする経営陣は、柔軟な方針のもと、組織を固め、将来性のある品目を選択するなど、着実に基礎を築いてきました。
統制解除も進み始めるなか、再び品質やデザインが重視される時代が到来することを見越して、意匠室も再設置。
1949(昭和24)年1月6日〜7日には戦後第1回目の初売りを開催しました。
その後も毎月新柄発表陳列会を行うようになりました。
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昭和25年第2回初売り会の様子。
1949(昭和24)年3月には、再結成された久津和会の「第1回新柄創作発表会」が開催され、大きな成果を上げました。
戦前に好評だった商標も復活させ、久津和会は和装服地から毛織物や合繊服地の意匠研究会へと領域を広げていきました。
外地からは続々と人が戻ってきました。
しかし、戦後の物資不足と混乱のなか、会社として全員を受け入れる体制・余裕はありませんでした。
寛次郎は、社員にそれぞれの故郷へ帰り、そこで田村駒の出張所や駐在員事務所などの看板を掲げて、商売をするように指示しました。
これにより、名古屋、金沢、福井など全国各地に15箇所以上の出張所や連絡所が誕生しました。
出張所・連絡所では、雑貨品や文房具、地元の産物を販売し生計を立てました。
1949(昭和24)年に本社業務が軌道に乗り始め、主要な支店・出張所以外が整理されると出張所員はやっと本社に復帰することができました。
現在も続く、「清交会」発足へ
戦後の混乱期の中、仕方なく独立し田村駒を去る者もいました。
しかし、田村駒への愛着があった者同士が自然と集まるうちに、1949(昭和24)年、84名の会員から成る「清交会」が発足しました。
懐かしい顔ぶれが集い、かつての苦労を分かち合う場となりました。
1955(昭和30)年頃から、定年退職社員も合流し、田村駒OBの親睦機関として、毎年1回の例会を行い、1993(平成5)年の会員数は250名以上になり、交流を深めていきました。
2026(令和8)年現在も約200名の会員で年に1回、東西分かれての親睦会を開催し、交流しています。
たとえ組織を離れ、それぞれの道を歩もうとも、「田村駒」で結ばれた絆は固いものでした。



