二代目駒治郎と近代的経営

Index

  1. 01.駒治郎の長男駒太郎、二代目駒治郎襲名
  2. 02.世界市場を拓く:海外輸出の拡大
  3. 03.変化への対応:商品構成の多様化
  4. 04.産業資本への挑戦:太陽レーヨン設立

駒治郎の長男駒太郎、二代目駒治郎襲名

1931(昭和6)年の初代駒治郎の逝去に伴い、駒治郎の長男駒太郎が二代目駒治郎を襲名、同年5月13日代表取締役社長に就任しました。

初代駒治郎が創業した年齢と同じ、27歳の時です。

二代目駒治郎は、1904(明治37)年2月21日、大阪市東区安土町に、初代田村駒治郎の長男駒太郎として誕生しました。

  • 田村駒太郎。3~4歳の頃。

船場小学校、大阪市立天王寺商業学校に進学し、野球に熱中しつつ、学業では優秀な成績を収めていました。

1921(大正10)年3月、17歳で田村駒商店に丁稚として入店。
他の店員と同様、荷造りや発送といった見習い業務から出発しました。
当時長男は家業を継ぐため大学に進学せず、早くから入店させて経験を積むというのが当たり前だったのです。

  • 右から2番目が社員時代の駒太郎。

入店して2年目以降、九州や東海地区の販売を担当するようになり、営業の才能を開花させていきました。
個人別売上記録を更新し、賞を獲得するほどでした。

人情の機微に長けており、同僚、取引先の人たちに好かれていたそうです。

海外への関心も深く、大阪高等商業学校の教授や大阪商科大学の教授に師事し、個人授業で外国語と経済学を学びました。

そして1926(大正15)年8月から約半年にわたり欧米の商工業を視察、次代の経営者として広い視野と見聞を身につけたのです。
帰国後の挨拶では、その視察の的確さと雄弁さが店員一同を感嘆させたといいます。

欧米視察後は、仕入れ部に移り、主力商品であるモスリン友禅部の責任者となりました。

またそれほど活発ではなかった企画宣伝・広告に力を注ぎ、思いきったアイディアと実行力で、「純毛モスリングローリー着尺」という商品の爆発的売上記録に貢献しました。

  • グローリー着尺の宣伝風景。

そんな二代目駒治郎の性格は、剛腹でエネルギッシュ。決断したことは即実行に移す行動力を備えていました。

社長に就任するや否や、旧来の問屋的体質からの脱皮を図り、田村駒を「問屋から商社へ」と転換させる近代的経営に挑戦し始めました。

世界市場を拓く:海外輸出の拡大

  • 輸出商品の商標「九連鐶」。当時の太平洋諸島向け黒紐布の商標。

二代目駒治郎は、1931(昭和6)年末の金輸出再禁止による為替の円安の背景も手伝って、近代的経営を進めるため、海外輸出を重視する方針を打ち出していきます。

京城、奉天に出張所を開設、販売員を海外各地に派遣しました。
販売員たちは一回の出張で、最低でも900ヤード入りの1ケースを150から160ケースも販売するなど、積極的な活動を繰り広げました。

国際経済と出張員たちの努力により、1932(昭和7)〜1933(昭和8)年にかけて、輸出は伸長、従来の中国向け輸出のほかに、インド、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカなど積極的に進出していきました。

商品は、捺染織物を中心とした繊維商品にとどまらず、テーブルクロスや陶磁器、ガラス製品など多品種にわたりました。

海外輸出の拡大は、問屋的性格から商社への転換を手伝い、長年の不況からの脱出を支える重要な柱となっていったのです。

変化への対応:商品構成の多様化

国内市場においても、二代目駒治郎は時代の変化を敏感に察知しました。特に、国民の生活様式が急速に洋服化へと進んでいることに着目します。

この状況に対応するため、1933(昭和8)年9月、田村駒商店北店を新設し、国内販売の体制を拡大しました。

北店には、毛織部、子供服地部、人絹部、既製品部、雑貨部、輸出部を設け、多品種の取り扱いを急増させました。

こうして洋服化という時代の潮流に合わせた商品構成は、大きな成功を収めたのでした。

1934(昭和9)年の室戸台風が発生。田村駒商店は、得意先に大量のパンを配るだけでなく、水で汚れたモスリンなどを持ち帰り、これらを水洗いし乾燥させて届けたことで、非常に喜ばれました。また支払いも猶予すると伝えたので、大いに感謝され、後のちまで優先的に仕入れてくれたそうです。

災害景気で商品はよく売れ、得意先の立ち直りも早く、田村駒商店の売上も伸長。
特に既製品や雑貨品の利益が目覚ましく、会社の主要商品として成長していきました。

産業資本への挑戦:太陽レーヨン設立

  • 太陽レーヨン玉島工場の全景。敷地面積は約33万㎡、当初の生産能力は日産7.5トンであった。

二代目駒治郎は、将来の繊維業界を牽引するのは、売買に従事する商業資本ではなく、生産を担う産業資本が主体になると常々考えており、生産部門に手を広げる機会を窺っていました。

日本国内の軍事体制強化が進む中、近い将来国内で自主生産可能な人絹の重要性が高まると確信した二代目駒治郎は、工場設立へと動き出します。

1933(昭和8)年、新興人絹株式会社の設立に参画し、スフ製造の優位性を身をもって体験しました。

この経験をもとに、1934(昭和9)年1月16日、資本金1000万円の太陽レーヨン株式会社を設立しました。

まず岡山県玉島に人絹糸とスフ綿の工場建設に着手し、翌年の1935(昭和10)年3月には第一期工事が完成、6月から人絹糸の生産を開始します。

創業当初は人絹の相場が下落し、苦しいスタートとなりましたが、1936(昭和11)年5月には繊維原料の自給自足という国策が打ち出され、スフの需要は高まっていきました。

しかし、既存メーカーが組織する人絹連合会は、相場の下支えのため、新興メーカーに生産調整の参加を求めてきました。

二代目駒治郎は、既存メーカーに従っていては、企業の発展はないとし、「絶対に生産調整には参加しない」と主張。当初の計画を推進しました。

こうして1936(昭和11)年11月には岐阜県大垣市藤江町に大垣工場を建設し、当初の計画を完遂させたのです。


二代目駒治郎の経営は、世界を見据えた輸出重視の拡大、生活様式の変化に対応した商品多様化、そして生産部門への大胆な進出という三本の柱によって、田村駒商店を近代的かつ国際的な商社へと変貌させていったのです。