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新社屋と三国寮が築いた基盤:真の近代的企業を目指して
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アメリカ式近代建築の新社屋
二代目駒治郎は、事業の拡大に伴い手狭になった本社を見て、ただの増築ではなく、企業の未来そのものを刷新する決断を下します。
1936(昭和11)年11月、船場の古い商家の佇まいが色濃く残る界隈に、突如として異彩を放つ建物が出現します。それが田村駒の新社屋ビルでした。
鉄筋6階建て、鮮やかなクリーム色のタイル張りのその外観は、まさにアメリカ式の近代建築そのもの。
各階全面に大きくガラス窓がはめ込まれたその姿は、周囲の度肝を抜き、「キャバレー・マルペケ」と揶揄されるほどだったといいます。
しかし駒治郎にとっては、これこそが新時代の旗印でした。
建物の内部もまた、革新の象徴でした。5階の展示場には、ルイ王朝時代を思わせるアールデコ風の絢爛な装飾が施され、船場界隈の名物となる豪華さでした。
設備面では、副射熱を利用した床暖房や、地階の送風機による換気システムなど、最先端のものが導入され、快適な職場環境を実現しました。
新社屋落成の翌日には、新築記念大売り出しが開催され、半年前から用意された商品が安値で販売されました。
早朝から多くのお客様が詰めかけ、開店直後に瞬く間に売り切れるという大成功を収めました。
また新社屋の完成とともに、旧来の「奉公制度」的な職制は完全に廃止され、部長・課長からなる部課長組織へと変革しました。
さらに、社内で働く人々の服装も、着物から洋服へと一新。洋服は若い社員にとってはあこがれであり、大歓迎だったそうです。大手商社と同様に船場でも早い時期の切り替えでした。
丁稚車もオートリヤカー、配達用自動車へと変わっていきました。
企業全体が、古き良き商家の体質を払拭し、近代企業へと生まれ変わろうとしていました。
充実した設備の寄宿舎「三国寮」
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寄宿舎「三国寮」全景。
新社屋完成の8か月前、1936(昭和11)年3月には、大阪府豊能郡庄内町(現在の豊中市神州町)に寄宿舎「三国寮」を完成させました。
それまで、業績好調で商品が溢れ返る店内の隙間に辛うじて寝場所を見つけていた住み込みの店員たち。
畳の上でゆっくりと手足を伸ばして寝られる環境は、大きな喜びとなったそうです。
寮の前には、広大な野球場、テニスコート、土俵までもが建設され、体力向上を考えた理想的な環境として、業界の羨望の的となりました。
これにより社員は余暇のスポーツを楽しみ、野球部などの社内クラブ活動も活発化していきました。
こうして田村駒はハード・ソフト両面において、近代的企業へと展望を遂げていきました。
ミニコラム
一楽荘
1934(昭和9)年に土地1万坪を購入し、約400坪の木造家屋を建築、二代目駒治郎の本宅として常盤町から移転、その後部分的に増築してできたものでした。
特に一楽荘の庭園は見事であり、来客はその豪華さに目を見張りました。



