初代駒治郎の功績と影で支えた徳三郎

Index

  1. 01.駒治郎の繊維業界への貢献
  2. 02.駒治郎の財界・政界進出と社会貢献
  3. 03.多忙な日々の中での最期
  4. 04.影の力 平松徳三郎の功績

駒治郎の繊維業界への貢献

初代田村駒治郎は、自らが創業し大きく発展させた田村駒商店の基礎を築くと同時に、広く繊維業界、そして社会に対して大きな足跡を残しました。

駒治郎は精力的に業界の世話役を務め、1906(明治39)年の大阪織物同業組合への参加を皮切りに、大阪洋反物商同盟会や大阪モスリン同盟会などの要職を歴任しました。

特に大阪織物同業組合においては、1920(大正9)年に副組長および建設委員長に就任し、組合事務所の新築に尽力します。

組合役員全員が望んでいた新築事業を、彼は設計から建築費の捻出に至るまで、建設委員長として陣頭に立って指導しました。


また駒治郎は、「意匠の田村駒」として、友禅図案の懸賞募集や図案研究会の発足などを実施し、新しい図案家の才能を発掘させ、切磋琢磨による図案の質的向上をもたらしました。

これにより意匠の世界は大きく発展を遂げたのです。

駒治郎の財界・政界進出と社会貢献

  • 貴族院議員に当選した記念写真

1921(大正10)年、駒治郎は大阪商業会議所議員に選出され、商工会議所のために尽力しました。

大阪を代表する企業の一つとして田村駒商店が認知されたのはこの頃です。

また、同年には大阪市会議員に当選し政治活動を開始。
1925(大正14)年には貴族院議員に当選して、中央政界へ進出を果たしました。

教育事業にも深い関心を寄せていた駒治郎は、清和塾の援助も行いました。
この塾は、全国の中学校の優等生で高等教育を受ける学費がない青年を選抜し、高校から大学を卒業するまでの学費援助を行うものでした。
駒治郎は毎年一人ずつ学資を援助し、多くの有望な人材を社会に送り出していったといいます。

多忙な日々の中での最期

貴族院議員として政界に入った駒治郎は、1925(大正14)年12月の第51回帝国議会に初めて登院して以来、東京での政治活動と大阪での事業兼務で多忙な毎日が続いていました。

1929(昭和4)年頃から体調が優れず、通院することも多くなっていました。
1931(昭和6)年3月30日午後11時45分、入院中の東京聖路加病院において呼吸困難に陥り、翌31日午前0時、ついに帰らぬ人となりました。享年64歳。

東京駅では、多くの取引先の人々が見送り、大阪へ向かう途中の沼津、名古屋、岐阜、米原、大津の各駅でも、それぞれゆかりのある人々が別れの挨拶に訪れたそうです。

大阪駅に到着すると、大勢の関係者が出迎え、駒治郎の柩は本店まで特別自動車で運ばれました。

葬儀は四天王寺本坊で盛大に執り行われ、その数々の功績に対して、没後、駒治郎は従六位に叙されました。

影の力 平松徳三郎の功績

田村駒治郎が一代で関西屈指の大商人に昇りつめたその背後には、弟・平松徳三郎の存在がありました。

駒治郎には六人の兄弟がおり、徳三郎はすぐ下の弟でしたが、平松家に養子に入ったため、平松姓を名乗っていました。

駒治郎は生前、常々「商売は戦争と同じである。要所要所に優秀な兵隊(人材)を配置し、新しい兵器(商品)を送り込むことである」と説いていました。

新しい意匠図案による「兵器づくり」を陣頭指揮したのは駒治郎でしたが、それを市場という「戦場」で活用し、勝利を収めたのは平松徳三郎の力に負うところが大きいでしょう。

徳三郎は創業以来、駒治郎の片腕となり、得意先回りによる販路の確保と拡大に奔走しました。

商店が一大商店に成長してからも、自ら四国や九州といった遠隔地に積極的に出向き、営業活動を行いました。
いわば副社長にして、営業本部長という役割を担っていたのです。

駒治郎が新商品の開発に全力を注げるよう、徳三郎は店を回し、補佐を務めあげました。

駒治郎の死後も、徳三郎は1938(昭和13)年に引退するまで、若き二代目駒治郎をしっかりと支え続けました。

田村駒商店が大阪の三大洋反物商の一つに昇りつめ、業界に君臨することができたのは、初代田村駒治郎と平松徳三郎、二人三脚で歩んできた結果だったといえます。