生き残りをかけた商人魂

1937(昭和12)年から日中戦争が勃発、1938(昭和13)年の国家総動員法、1939(昭和14)年10月の価格統制令など、戦時色が濃くなり日本国内での統制が強化され始めます。

  • 三国寮入寮者の記念写真。昭和13年北御堂前で撮影。寮長(最前列中央)以下全員で戦勝祈願を行った。

1938(昭和13)年に「毛製品ステープルファイバー等混用規則」が実施され、田村駒商店の重要な柱であった純毛モスリンは市場から姿を消すことになりました。

代わりに台頭し始めたのが、「愛国繊維」と呼ばれたスフでした。

柱を奪われた田村駒商店でしたが、1938(昭和13)年に発売したスフ製の「貴菊着尺」の宣伝用ポスターに、女優の原節子氏をモデルとして起用。ポスターが奪い合いになるほどの人気を博し、大きな話題となりました。

日本国内での自由な販売が難しくなると予想した田村駒商店は、海外輸出の更なる強化を図ることにします。
1938(昭和13)年には中国の上海と天津に出張所を開設、1939(昭和14)年には、奉天出張所と京城出張所を支店に昇格させ、次々に拠点を整備していきました。

そんな中、事件が起こります。
1940(昭和15)年1月、船場問屋の大半が物価統制令違反で警察に連行される事件が発生。
田村駒商店も約20名の社員が連行され、厳しい取り調べを受けました。

当時の船場商人は、売れるものは一銭でも多く利を取って売るのが常識で、公定価格がいくらであるかなど知らずに、営業活動をしていました。

しかし、そんな商人魂が通らない時代に突入していたのです。

1940(昭和15)年7月、通称「七.七禁止令」が出されました。
華美な装飾が禁じられ、織物はすべてカーキ、ブルーを基調とした無地にすることが通達されました。
これにより「意匠の田村駒」の意匠部は解散せざるを得ませんでした。

  • 昭和15年5月東京支店開設。東京地区での仕入強化に主眼をおいたが、統制下での情報収集という役目も担っていた。

ついに、1941(昭和16)年12月、日本がハワイの真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦が開戦します。

開戦と同時に、業者個々の輸出は全面的に停止。
衣料品はすべて配給制となり、繊維の市場取引は完全に停止しました。

田村駒商店は、長年の実績が評価され、日本綿スフ織物配給統制株式会社、日本絹人絹織物配給統制会社、布帛製品配給統制株式会社の配給代行商社として、国に代わって物資を動かす立場へと変わりました。

もはや自社で自由に商品を作ることは叶わず、配給業務に従事する日々が続きました。

  • 田村駒音楽部(ブラスバンド)。昭和12年に結成され、出征兵士の歓送会にも欠かせぬ存在となる。写真は昭和16年。

日本の戦況は一段と厳しさを増し、内地の物資不足は深刻を極めました。
田村駒商店は生き残るために化粧品、文房具、服飾雑貨、家庭用品、皮革類、鞄、さらには紙布と呼ばれる脆い紙の布まで、扱えるものは何でも扱いました。

海外支店・出張所の社員たちも苦境に立たされていました。
1942(昭和17)年前半で、日本からの輸出が途絶えてしまいます。

本社からの商品供給が望めない中、自力で経営をするしかありませんでした。
1943(昭和18)年7月、奉天支店を改組して設立された満州田村駒株式会社は、各種織物、雑貨の卸販売を柱に営業を続行しました。

  • 満州田村駒株式会社を設立。

上海や天津の支店でも、独自の判断で傍系会社や現地の会社から商品を仕入れ、販売を行いました。

仕入れるだけではなく、支店・出張所の多くは別会社を設けてさまざまな製品の生産にも取り組みました。
1944(昭和19)年の1年間は、軍納品に力をいれ、商売を成立させていました。